アメリカで「英国国教会」は 「米国聖公会」として知られています
英国国教会を“絶滅の危機”に導いた要因の一つであるその歴史とはどんな歴史でしょうか。過去を振り返って見れば、それを説明するのに役立つでしょう。
英国国教会のルーツは、今から約5世紀の昔、ローマ・カトリック教徒であったヘンリー7世が王位にあった時代にまでさかのぼります。ヘンリーの長子であったアーサーは、スペインのキャサリン・オブ・アラゴンと結婚していましたが、死去しました。スペイン王室との結び付きを保っておきたいと考えたヘンリー7世は、キャサリンを次子ヘンリーと結婚させることにしました。そのヘンリーが後にヘンリー8世になります。
こうして宗教改革はゆるぎのないものとなり、ローマからの分離は完了しました。その結果、法王の権力から完全に分離された国教会が存在するようになりました。しかし、そのような国家と教会の関係のために、社会の一部が徐々に疎外されてゆきました。年を経るうちに、“自由”教会派や“非国教派”教会などのグループが形成されたのも、その証拠の一つにすぎません。英国国教会の僧職者マイケルズは次のように述べています。「多くの人々は今日、教会と国家のこの協力関係を息苦しく感じている。教会は自らを解放しなければならない。政府の顔色をうかがっているようでは、……また政府の政策の執行機関のような役割を果たしているようでは、戦闘的な教会にはなり得ない」。
アメリカで「英国国教会」は、「米国聖公会」として知られています。
そのことがどうして減少の一因となっているのでしょうか。英国国教会の僧職者、ロナルド・マイケルズは、「多くの人々は今日、教会と国家のこの協力関係を息苦しく感じている」と述べ、カンタベリー大主教でさえ、「自分の教会が歴史の重みで身動きできない状態にあることを認めている」と語っています。
なお「英国国教会」は世界中で信仰されており、国によって異なる名称で呼ばれています。そうした異なる教会の連合組織は、「英国国教会派(Anglican Communion)」として知られていますが、組織のトップはカンタベリー大司教であり、「英国国教会」が母体であることには変わりはありません。
BBCのマーティン・バシル宗教担当は、今回の任命は、英国国教会聖職者、特に高位聖職者の構成の多様化を象徴的に示すことになった点でも重要、と評価している。黒人、アジア系、少数民族の聖職者は極めて少数だった英国国教会で、ようやく微増に転じてきた流れを、さらに速めることも期待される。
この間ずっと、英国における教会は基本的に言って全く変化しておらず、依然としてカトリックで、独自の教理と性格を有する英国国教会にはまだなっていませんでした。
イースターのように出席者の一番多い時期でさえ、バプテスマを受けた教会員のうち教会へ来るのは10%足らずです。なぜそのように少ないのでしょうか。ダニングはこう述べています。「その答えの一つは、英国における“官選”キリスト教の特異な歴史にある。ヘンリー8世がローマと縁を切って以来、英国国教会は国教、つまり“国立”教会となった」。
ヘンリーの治世の最後の14年間に、英国のカトリック教会は国教会として強化されてゆきました。国王至上法によって、ヘンリーは自らを英国国教会の地上における至上の長としました。
しかし、1553年にエドワード6世が若くして死去すると、その王位は、ヘンリー8世がキャサリン・オブ・アラゴンによってもうけた娘であるメアリーに移りました。メアリーは母親同様、忠実なカトリック教徒で、法王の支持者でした。英国国教会を法王の権威の下に戻すのがメアリーの方針でした。それ以前の改革は覆され、宗教改革のリベラルな教会指導者たちは退けられました。クランマー大主教を含む300人近くのプロテスタントが火あぶりにされました。
国家によって厳しく統制され、高位僧職者の任命や祈とう書の形式まで議会によって定められる今日の英国国教会のような存在形式は、時代錯誤的なものと言えるでしょう。この状態こそ教会員がひっきりなしに流出する一因であることは明白です。英国国教会が今日“絶滅の危機”にさらされていると言われるのももっともなことではありませんか。
英国国教会のこの急激な衰退の原因はどこにあるのでしょうか。カンザスシティー・スター紙のブライアン・ダニング特派員は、ロンドンから次のような答えを寄せています。「その理由はごく単純である。すべての教会を満たすだけのクリスチャンがいないのである。かつては満員であった教会の多くが今では空き家になっている」。