「生活が苦しいのはその人の選択のせい」と考えるのも自己責任論だ

自分が関与したことの結果はすべて自分の責任とする「自己責任論」

それでも声高に「自己責任論」が出てきたのは、彼らを拘束した武装グループから発せられた解放条件に「自衛隊撤退」があり、被害者家族や支援者たちがそれを国に強く要求したところからである。国の立場とすれば「人質をとられたから撤退する」と軽々に言えないのだろう。しかし、「自己責任論」が「国策と反する者」を封じる込めるため、個人の行動に規制をかける言葉として用いられているように感じた。人道支援では、国レベルでこそ、できることがある一方、行政では機動性が乏しく手の届かないことが多々ある。それは1995年の阪神淡路大震災によって明らかになったはずである。

自分が関与したことの結果はすべて自分の責任とする「自己責任論」。専門家や識者からはどちらかというとネガティブに見られている考え方だが、日本では自己責任が求められることがしばしばある。今回は自己責任論の問題やリスクについて過去記事からピックアップする。

吉田:上場会社の経営者としては、経済の発展や活性化を通して社会貢献したいという思いがあります。一方で、「そもそも貧困や経済格差は、現代社会に根付く資本主義というシステムのエラーである」という考えも持っています。駒崎:どういうことでしょうか?吉田:産業革命で資本主義が広まって以来、貧富の差は拡大する一方で縮まらない。貧困について考えるほど、資本主義そのものが生み出す歪みと向き合わざるを得ないんです。資本主義社会が経済格差を助長しているという背景を考えれば、「貧困は自己責任」とは言えません。社会システムの問題であり、社会が解決するべき課題なんです。そして「自分がこの社会で生きていくこと」に真摯に向き合えば、社会課題の解決が自分自身のためでもあると気付くでしょう。この問題とは継続的に向き合って、会社としても個人としてもできることをやっていきたいと思っています。駒崎:なるほど。素晴らしいですね。

自己責任論とは、自分の行動によって起こる結果はすべて自分の責任とする考え方のことだ。たとえばある事業に失敗した場合、その失敗は事業のために行動した人に責任があるとする。「生活が苦しいのはその人の選択のせい」と考えるのも自己責任論だ。

「自助」「自己責任」が強調される社会の中でしんどさ、生きづらさを感じているという方もいるのではないでしょうか。6月に岩波書店から刊行された『自助社会を終わらせる―新たな社会的包摂のための提言』は、「自助社会」の問題点を深掘りしながら新たな方向性を提言する1冊。政治学、経済学、社会学、哲学などさまざまな分野の著者が並ぶ中、最年少の著者として名を連ねているのが人文社会科学部の川島佑介准教授です。川島准教授は「自己責任」と通ずる「地域責任」という言葉を用いて、コロナ禍の中複数の県などで独自につくられた接触確認アプリを例にあげて、危機管理政策の地方分権に関する問題点を指摘しています。詳しい話を聞きました。

幸いにして、武装グループおよびイラク人の多くが、彼らのイラク入りの目的を理解し、彼らは無事解放された。しかし、解放後の彼らに待っていたのは、「国の発した退避勧告を無視する者として自業自得」「自己責任を知らぬ無謀な行為」「救出に国が要した費用を支払わせるべき」などの言葉であり、その重さは、彼らを押しつぶさんばかりである。

自己責任論は個人の責任感や覚悟につながり、その人の成長を促すという意見もある。また自己責任論では原因を自分の内側に求めるため、「なぜ?」という質問を深掘りすることが多くなり、論理的思考力を養うともいわれる。

今回は自己責任論をめぐる専門家や識者の見解を中心に、過去の記事を紹介する。

―「自己責任」が強調される中、それと地続きの「地域責任」という概念を用いて地方分権の課題を捉える視点は興味深かったです。この言葉はオリジナルですか?

ただし、楽観しているのは、一時高まった「自己責任論」に対して、反論が各所からあがっていることである。「自己責任論」を声高に叫んでいた者は、いずれその狭量を指弾される時がくるだろう。

彼ら5人が危険を承知で、イラクの中でも特に危険な状況になっていたファルージャに近寄り、拘束されて以降、「自己責任」を問う論が出てきた。彼らのうち4人はもともとイラクで活動していた人たちである。彼らも、拘束という事態が自己の責任において発生したことは、よく理解していたはずである(彼らが活動できないほど危険な状況がどうして生まれたか、イラク戦争の目的や米軍の駐留政策などから考える必要があるが、ここではそこに入らずにおく)。

しかし自己責任論が行きすぎると、人は「すべて自分の責任」とネガティブなイメージにとらわれてストレスをためやすくなってしまう。また自分だけでなく他人に必要以上に厳しくなって、同僚の失敗を過度に追及したり、相手のモチベーションを下げたりしてしまう危険性もある。このため、専門家の多くは、自己責任論についてネガティブに評価することが多い。

そもそも「国」とは、個人がそれぞれの幸福の実現のため、権利の一部を国に預け、かつ義務を果たすことで成り立っている。国にはその付託に応える責任がある。今回耳にした「自己責任論」の中には、国の成り立ちそのものを見誤っているものもないだろうか。海外のメディアが奇異に感じているのもそこであり、「お上」といった発想まで見えてしまう。この考えの恐さは、個人または市民層の良心にもとづく自発的な動きを大きく制限しかねないことである。

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