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化学肥料の登場から現在,そして未来
−化学肥料が果たしてきた役割−
1.化学肥料の登場まで
化学肥料が商品として世に出たのは,1843年7月1日のことである。イギリスのローズ(SirJ.B.Lawes)が過リン酸石灰,リン酸アンモニウム,ケイ酸カリウムからなる特許肥料を製造し,ガーデナーズ・クロニクル(Gardener’sChronicle)誌にその販売広告を出したのがまさにこの日だった。したがって,土壌の養分補給に化学肥料が使われた期間は,まだ175年にしかすぎない。人類の農耕開始がおよそ1万年前とされているから,農耕の歴史の大部分は化学肥料に依存せず土壌肥沃度を維持してきたことになる。
ちなみに,わが国の無機質肥料を販売用に製造したのは,1885年に多木製肥所による骨粉の製造に始まる。しかし,工業的な肥料製造を始めたのは,1888年の東京人造肥料会社(高峰譲吉が財界人の支援をうけて1887年設立)の過リン酸石灰製造からである(熊澤,1978)。
1)養分補給の重要性
土壌から作物への養分供給が作物生産に重要であることを,人類は早くから気づいていた。作物を栽培し収穫すると耕地の土壌から養分が収奪され,その養分を土壌に還元しないと,土壌肥沃度が低下することを経験していたからである。それゆえ,化学肥料が世に出るまでは,養分移転材料として,森の落葉や腐葉土,河川や湖沼の泥土,山林の下草,野草,草木灰,人や家畜のふん尿,海藻といった,ありとあらゆるものが利用された。しかし,これには多大な労力を必要とした。
そこで,土壌肥沃度を維持しつつ,耕地の作物生産力を高めるための方法が求められた。そして考え出された耕作方法,それがヨーロッパを中心に発達した輪作であった。
2)輪作−ヨーロッパでの土壌肥沃度維持法
輪作の初期は,きわめて単純に耕地を二分し,一方は作物栽培に用い,他方は休閑することで土壌肥沃度の回復を自然にまかせた。この農法を二圃式という。休閑は最も消極的な肥沃度回復対策であった。しかし,休閑だけで肥沃度を回復させるのはむずかしい。そのうえ作物生産も安定しない。そこで,しだいに次の三圃式へ移行していった(図1)。
三圃式農法では,播種期が秋と春の2回に分散しているため,農作業の均平化と凶作の危険分散が可能になった。耕地のまわりにある広大な共同放牧地を利用して,家畜が飼養されたことも大きな特徴である。耕地系外の共有地や共同利用の永久放牧地で放牧される家畜は,夜になると畜舎にもどり,畜舎で排泄されたふん尿は,堆肥になって休閑地に還元された。こうして,耕地系外の土壌にあった養分が,家畜ふん尿をとおして耕地に補給され,土壌肥沃度が維持された。
この家畜ふん尿を養分移転材料として使用するという考え方は,その後の穀草式農法にもうけつがれた。その後,イギリスのノーフォーク地方を中心に,当時としては最も集約的な4年輪作農法に発展していった。これが輪栽式農法,いわゆるノーフォーク農法である(図1)。
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3)超集約的輪作−ノーフォーク農法
この農法の特徴は,共同放牧地を囲い込み,休閑を廃止してすべて耕地化し,そこへ飼料作物の根菜類(家畜用カブ)とマメ科牧草のアカクローバを導入して,飼料生産量を増やしたことである。これによって飼料不足が解消され,家畜の多頭飼養と冬季舎飼いが可能になり,堆肥生産量が飛躍的に増えた。そのため耕地への堆肥施用量が多くなり,土壌肥沃度が向上した。アカクローバは土壌の窒素供給力を高め,浅根性のムギ類と深根性の根菜やアカクローバの栽培は,土壌中の養分吸収領域を拡大させた。さらに,根菜類は土壌の堅密化を防いで土壌の物理性改善効果をもたらした。飼料畑の土壌中にあった養分は,家畜のふん尿を通して堆肥に姿をかえ,飼料畑から耕地へ移動した。堆肥が養分移転材料として,とくに重要な役割をはたした。
こうして耕地の土壌肥沃度が改善された結果,この農法が導入されはじめた1750年代には1.0t/ha程度しかなかったコムギ子実収量が,この農法が広く普及した1850年代には1.7t/ha程度にまで増えた(Binghamら,1991)。この増産によって,ノーフォーク地方だけで全イングランドの穀物生産量の90%をまかなうほどの生産量をあげるようになった(飯沼,1967)。当時,この農法がいかに画期的であったかがうかがえる。
4)わが国の土壌肥沃度維持の特殊性
わが国の主要作物であるイネは水田で栽培される。イネはもともと連作が可能だったため,わが国ではヨーロッパのような輪作を考える必然性に乏しかった。
しかも,湛水条件に置かれる水田では,土壌が還元されてリンなどの養分が可給化しやすい。さらに水田にはかんがい水から養分が自然に補給される。また,わが国では勤勉な労働で,耕地内外からの養分が,例えば,林地の下草や野草などからつくられる堆肥,イネのワラ類を燃やした草木灰などに形を変え,積極的に水田にもち込まれた。こうして,わが国では特別に意識しなくても,土壌の肥沃度が維持されていた。そのためイネの子実収量は,太閤検地がおこなわれた16世紀末ですでに1.8t/haと,絶頂期のノーフォーク農法によるコムギ収量と同等の生産量だった(高橋,1991)。
さらに江戸時代の17世紀以降には,人のふん尿であるし尿が商品化し,その農地還元の経路がしっかりと確立されていた(高橋,1991)。こうしたわが国の完全な養分循環システムが,土壌肥沃度の維持に大きく寄与していた。こうした事実は,植物の無機栄養説を広く普及させたリービヒを驚嘆させたほどであった(リービヒ,2007)。わが国の水田中心の農法がヨーロッパの輪作農法と決定的に違うのは,耕地の養分移転に果たす家畜ふん尿の役割が小さいことである。ヨーロッパの農法では,家畜ふん尿を利用して飼料畑にあった養分を堆肥という形に変えて別の耕地に移転させた。すなわち,そもそも堆肥は養分源としての扱いであった。
一方,わが国の家畜は役畜としての役割が主体であった。イナワラを主体とし,家畜ふん尿を多く含まない堆肥原料はC/N比が大きい。このため,腐熟させてC/N比を小さくする,いわゆる完熟堆肥としないかぎり有効な養分源になりえなかった。わが国でしばしば無条件に指摘される「堆肥は完熟堆肥でなければならない」は,こうした歴史的背景の影響だろう。
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2.化学肥料の登場から現在
1)ローズとギルバートが開始した長期試験
化学肥料を世に送り出したローズは,化学肥料の肥効を確認するため,リービヒのもとで化学を学んだギルバート(SirJ.H.Gilbert)を自分の生地ローザムステッドに招き,堆肥の肥効と比較する試験を開始した。化学肥料を世に出したまさにその年,1843年だった。これがローザムステッド農業試験場(現在のRothamstedResearch)の始まりである。この試験は,175年後の現在もなお継続されている。
この試験の結果を示したのが図2である。連作コムギ試験の化学肥料(N144kg/ha)区のコムギの子実収量は堆肥区と大差がない。また,1968年には高収量品種がこの試験に導入された。その結果,堆肥や化学肥料の施用量が変化しないにもかかわらず,品種の変更だけで連作コムギの収量が2倍近く増えている。しかも,同時期から設けられた5年輪作区では,堆肥に化学肥料の窒素分を加えて全窒素施用量を多くしたところ,収量が9t/haをこえる水準(日本のコムギの平均収量のおよそ2倍以上)に増えた。この収量は,1967年までの古い品種時代の堆肥区の収量のおよそ3倍に達した。高収量品種の肥料養分への反応のよさが理解できる。
この長期試験は化学肥料を適切に使用し続けるのであれば,その肥効は確実で作物生産に悪い影響を与えることがないことを明確に示している。もちろん,土壌中の微生物に対する影響も,堆肥だけで栽培した場合と大きな差異がない(表1)。すなわち,化学肥料を与えたからといって,土壌の生物が死に絶えるなどということはない。
しかし,化学肥料が世に出たばかりの19世紀の農業者には,ローズやギルバートと同じく化学肥料が本当に安心して利用できるのかという不安を抱えていた。
2)ノーフォーク農法のその後と化学肥料の役割
19世紀,イギリスの農業はノーフォーク農法
の絶頂期に黄金時代をむかえていた。しかし,この黄金時代は長続きしなかった。アメリカやカナダから安価なコムギが大量に輸入されたからである。これによりイギリスのコムギ栽培は大打撃を受け,農業不況におちいった。この不況は1875年
ころからはじまり,第一次世界大戦中に一時中断したものの,およそ60年間もつづいた(McClean,1991)。
農業不況はノーフォーク地方でも深刻だった。ノーフォーク農法では,堆肥生産のために家畜を必要とし,その家畜の飼料生産のために耕地の2分の1が割り当てられている。しかし,飼料生産からは収益が直接上がらない。そこで飼料生産をやめ,換金作物を栽培して収益増をめざし,不況を脱出したいという要求が高まった。ただし,飼料生産をやめると家畜を飼養できなくなり,同時に堆肥生産ができなくなって作物生産そのものが減収する。したがって,問題は堆肥の代用になる養分源であった。その解決策が化学肥料だった。
当時の農業者の化学肥料への不安を解消するには科学的裏付けが必要だった。ノーフォークの農業者は,自ら出資してノーフォーク農業試験場(後のMorleyResearchCentreを経て,TheMorleyAgriculturalFoundationに受け継がれている)を1908年に設立した(図3)。
ノーフォーク農業試験場での12年間にわたる長期輪作試験結果は,作物の収穫残渣(麦稈やテンサイ地上部)の土壌へのすき込みに化学肥料を併用すれば,堆肥無施用でもオオムギやコムギの子実収量を堆肥施用区とほぼ同じに維持できることを明らかにした(Raynsand
Culpin,1948)。この結果に基づき,化学肥料の併用を条件に,飼料用カブのかわりに同じ根菜類のテンサイを,アカクローバのかわりにバレイショの栽培が推奨されるようになった(McClean,1991)。こうして化学肥料への不安が少しずつ解消され,ノーフォーク農法の養分源が堆肥から化学肥料へ徐々に移行し,世の中に化学肥料が受け入れられていった。
3)食料増産への化学肥料の役割
世界の人口は産業革命以降,爆発的に増加した。産業革命後の200年間で6倍以上,第二次世界大戦後の1950年からの68年間だけでも人口は3倍に増えた。この増えつづけた人口を支えた大きな要因が,20世紀の驚異的な食料増産だった。20世紀のはじめ1900年の穀物生産量はおよそ4億トン。それが世紀末の1999年にはおよそ21億トン,5倍以上の増産だった。人類の歴史上,これほどの食料増産をはたした世紀はない。農耕地の拡大とともに,単位面積当たり生産量(以下,単収と略)を増やすための品種改良,化学肥料,農薬,機械などを駆使した技術開発が食料増産を可能にさせた。それが「緑の革命」である。事実,「緑の革命」の時代以降,すなわち,1960年以降,化学肥料の使用量が急激に増加した(図4)。わが国でも,化学肥料の使用量が急増したのは戦後になってからのことである(松中,1975)
「緑の革命」以降の1961年から21世紀にはいった2015年まで,世界の主食になる穀物の生産面積は,6.5億ha(1961年)から7.3億ha(1981年)の範囲内で大きな変化はなく,その間,世界の人口増加が続いたため,1人当たりの穀物生産面積はひたすら減少した。ところが世界の穀物生産量は,1961年の9億トンから2015年の28億トンまで増加基調が続いている(FAO,2018c)。面積が停滞する一方で生産量の増加傾向がつづいたのは,単収が増加したからである。そしてそれを支えたのは,見かけ上,化学肥料使用量の増加であった(図5)。
Smil(2001)は「20世紀最大の発明は,飛行機,原子力,宇宙飛行,テレビ,コンピュータではなく,アンモニア合成の工業化である。これなくして,1900年から2000年までの100年間に,人口が16億人から60億人まで増加することはなかった」と述べ,食料増産に対する化学肥料の重要な役割を指摘している。
4)化学肥料がもたらした負の課題
これまでの話だけだと化学肥料には特段の問題
がないようにみえる。しかし,「緑の革命」のような多収技術を導入するには,肥料や農薬,さらに水供給の施設整備のために資本を必要とする。このため,途上国の農業者でこの技術を導入できるのは富裕層に限られ,小規模な貧困層との格差を拡大する要因となった。このため,「緑の革命の科学と技術は,貧しい地域や貧しい人々,そして伝統的に培われた持続可能な技術を排除した」との厳しい批判(シヴァ,1997)がある。
それだけでなく,化学肥料は養分源であった有機物(堆肥)の制約を取り除くことに成功した一方で,自然界における養分循環を乱し,養分のアンバランスをもたらす一因になったという指摘もある(高橋,2007)。
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3.化学肥料の未来
20世紀末,1人当たりの穀物生産量が減少に
転じたとき,食料不安がひろがった。食料不足による絶望的破局がやってくると警鐘をならしたマルサスの不安が現実味を増したからである。しかし,現状では化学肥料使用量の増加で単収を高め,その不安を克服したかにみえる。
ところが,Smilが指摘した20世紀最大の発明であるハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成には,化石燃料という有限のエネルギー資源が必要である。リンやカリウムにしても,原料になる鉱石はいずれも有限の資源である。最近の調査(U.S.GeologicalSurvey,2018)から計算したリン鉱石の採掘可能年数は,およそ260年でしかない。カリウム鉱石の採掘可能年数も同様に,およそ290年である。それゆえ,化学肥料依存の食料増産が持続的でないことは明らかである。
化学肥料を用いることなく,ノーフォーク農法のように養分循環を基本とする農業は,持続的で将来にわたって食料生産を担える。
しかし,それでは膨れ上がった人口を養う食料生産のための土地が不足する。養分移転材料を生産する家畜を飼養するための飼料畑が必要だからである。資源循環を維持して環境を保全しながら,なおかつ豊かな食生活を保証する農業をどう実現するのか,この難題が私たちに提起されている。化学肥料の果たした役割が大きいだけに,その呪縛から逃れるのはなお大きな試練があるだろう。それを打ち破る英知が求められている。
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